家はあるのに、行く場所がないということ

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photo by Zbynek Burival(https://unsplash.com/@zburival?utm_source=templater_proxy&utm_medium=referral) on Unsplash|319x460

正直に言うと、私自身もこんな問いを抱いたことがあります。

ひきこもり・孤立した若者(日本でいう「ひきこもり」に近い、韓国では「은둔·고립 청년」と呼ばれる人たち)の話を聞くと、まずこんな光景が浮かびますよね。家でYouTubeを見て、リールを流し見して、ゲームをして、ウェブトゥーンを一気読みする。お腹が空けばデリバリーを頼み、必要なものはネット通販で届く。今では、わざわざ外に出なくても、たいていの生活が成り立ってしまう時代です。世の中がそれだけ便利になったわけです。

そうしているうちに、考えは気まずいところへ流れていきます。自分だけの空間で、やりたいことを思いきり自由にやっている人を、どうしてわざわざ「うつで、助けが必要な人」と見なさなければならないのか。お金を稼いでいないから? 今どきはゲームの中でお金を稼ぐ人だっているのに。むしろ「助ける」という名目で、その人が今やりたいことを邪魔して、生活を丸ごと変えようとしているのは、こちらのほうではないか?

恥ずかしながら、私はここまで考えが及んだことがあります。そしてこの問いは、たぶん多くの人が口に出さないだけで、心の中では一度くらい抱いたことのある問いだと思います。

ところが先日、ソウル青年キジゲセンター(ひきこもり・孤立した若者を支援する公的なセンター)を訪ねました。そのあと、問いが少しだけ変わりました。

「家でも暮らせるようになった」ことが、慰めではないかもしれません#

まず揺らいだのは、「世の中が便利になったから、家でも暮らせるじゃないか」という前提でした。

たしかにそうです。デリバリーアプリ、ストリーミング、ゲーム、オンラインショッピング。以前なら外に出ないと片づかなかったことが、今では部屋の中で全部終わります。でも、よく考えてみると、かつて人を再び世の中へ引き出していたのは、大それたきっかけではありませんでした。ご飯を買いに出て通りすがりに交わしたコンビニの店員とのやりとり、買い物のついでに交わした二言三言、どうしても外に出なければならなかった些細な摩擦。そんな小さな接触が、人をずっと世の中につなぎとめていたのです。

技術は、その摩擦をすべて取り除きました。便利になったわけです。でも同じ理由で、今では誰かが世の中から静かに消えても、当面は何も起きなくなりました。飢えることもなく、大して不便もなく。死なずに消えられるようになったのです。

だから「家でも暮らせるようになった」という言葉は、今の私にはもう慰めには聞こえません。むしろ、いちばん静かな危険信号のように聞こえます。

「自由にやりたいことをやっている」という錯覚#

二つ目に引っかかったのは、「やりたいことを自由にやっているだけなのに、なぜ止めるのか」という部分でした。

この理屈には、実は私が見落としていた穴が一つありました。ひきこもり・孤立を語るとき、ほとんど必ず出てくる言葉があるんです。本人たちも、こうしていてはいけないと分かっている、ということです。

ここで話のつじつまが合わなくなります。本当に自由な選択なら、こうしていてはいけないと思う理由なんてないはずです。出たいのに出る方法を失ってしまった状態、毎日「明日は違うふうに生きよう」と思いながらその敷居を越えられない状態。それは自由ではなく、閉じ込められている状態に近いのです。

だから正確には、やりたいことをやっているのではなく、できることがそれしか残っていないのです。選択肢が一つに減ってしまったことを「自由」と呼んではいけなかったのです。

「屋内のホームレス」という言葉を読み直すと#

かつて私は、ひきこもりの若者を「屋内のホームレス」のようなものだと、ひねくれた見方をしたことがあります。家の中にいるだけで、社会から抜け落ちてしまったのは同じじゃないか、と。

でも、この言葉を裏返してみると、むしろ核心が見えてきます。ホームレスは家を失った人です。ひきこもりの若者は、家はあるのに、扉の外の世界を失った人です。失ったものは違って見えますが、結局、二人が失ったものは同じです。世の中とのつながりです。

ホームレスに必要なのが非難ではなく、再び身を横たえる場所であるように、ひきこもりの若者に必要なのも「なぜそんなふうに生きているのか」という烙印ではなく、もう一度つながれる場所です。実は、烙印こそが問題だという最初の私の考えは、半分は当たっていました。助けるべき哀れな人だと決めつけた瞬間、出てくることがさらに難しくなるからです。ただ、烙印を取り払ったあとに必要なのは放置ではなく、開かれた扉でした。方向が間違っていただけなのです。

だから「助ける」というのは#

ここで最初の問いに戻ってみます。「なぜ助けなければならないのか、無理やり生活を変えるようなものではないか」。

キジゲセンターで私が見たのは、誰かを無理やり引き出す姿ではありませんでした。むしろ逆でした。**キジゲ(伸び)**という名前からしてそうです。伸びは、他人が無理やり起こしてくれるものではありませんよね。眠りから覚めるとき、自分の体が準備できたときに、自分で伸びをするのです。そばにいる人にできるのは、そのときまで部屋を寒すぎないようにしておくことと、目覚めたときに出られる扉を開けておくことくらいです。

助けるというのは、その人の「今」を否定して作り変えることではありませんでした。出てきたくなったときに渡れる橋をかけておくこと、戻ってこられる席を空けておくこと。それが助けでした。

そしてこれは、ひきこもり・孤立した若者だけのための話ではありません。かつて「なぜ助けなければならないのか」と問うた私のような人のための話でもあります。私たちが少しだけ烙印を減らし、席を少しだけ空けておけば。今、扉の内側にいる誰かは、自分が準備できたときに、その扉がまだ開いていることに気づくはずですから。

家はあるのに行く場所がないというのは、行く場所を永遠に失ったという意味ではありません。まだその扉を開けていないだけです。だから私たちがすべきことは、その扉を代わりに壊すことではなく、鍵をかけずにおくことです。


Without some goals and some efforts to reach it, no man can live.

— John Dewey


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